Lecture (in Japanese) – 2002.10.19

伊東不学 新体道道守合宿講義録(2002.10.19)

みなさん、こんばんは。
合宿の課題図書「日本人とグローバリゼーション」(河合隼雄・石井米雄著)をもとにした、みなさんのディスカションを興味深く聞かせてもらいました。それぞれ貴重な意見をありがとうございました。僕もこの本を興味深く読ませてもらったんですけど、この本に書いてあることと新体道を関連づけて少し話をしてみるとね、我々が大切にしなきゃならないとなんとなく思ってるものが、現代文明、つまり科学とテクノロジーによって、押し潰されているワケです。ナバホの社会でもそうだけれど日本でも失われて来ている。日本の価値観や社会も崩壊してますよね。ちょっと前までは経済が調子良かったから、なんとなくアメリカのマネして調子良くやってたけど、最近はそうもいかないことがミエミエになってきて、その上経済もダメになってきちゃった。青木先生がずっと言っておられるけど戦後、開発、開発でやってきて、そのために犠牲にしてたものってとても大きいんです。その犠牲をどうやって取り戻すのかっていうことなんだけど、ところがどっこい、青木先生が先に、それを何年か前に見越して、用意して待ってて下さった。

そういう意味で、新体道の開発というのは、青木先生のアーティストとしての先見の明です。スゴイですよね。それが、日本人だけじゃなくて、ナバホの人たちが失ったもの、失わざるを得なかったものも含めてね、それを回復させるもの・・・ナバホの人たちがスグ新体道をはじめるとか、そういう意味じゃなくて、・・・とってかわるものが新体道なんじゃないですかね。すべての人が新体道をやる必要もないと思うけど、新体道は失われたものにもういっぺん、それこそ放光位みたいにマッチで火をつけて、それぞれの人にもういっぺん思い出させる、そういう力があるんじゃないかなと思います。そういう使命が。

さて、ここからは僕自身の話になるんですが、1990年代のはじめ頃ドイツで原子力発電の核廃棄物拡散に反対する人たちと一緒に新体道をするようになってから、僕の中で新体道をやる意味がドンドン変化してきたんです。で、特に昨年の9月11日以後、ものすごく大きな変化がありました。

ひとつみなさんに聞きたいんですが、去年の9月11日のことをどう受け止めましたか?9月11日はもちろんみんなショックだったと思うけれど、あれで旅行行けなくなって残念だったとか、いろいろあると思いますけど、2001年9月11日はみなさんにとって、どういう意味があったんでしょうか。こう言うと、アメリカ人が怒っちゃうけどね、すごい意味があったんじゃないか。・・・・アメリカ本土がアメリカ人以外の人に初めて攻撃された日ですからね。独立戦争の時にイギリス人と戦争したってのは別にして。
松山「アメリカのもってる傲慢さがあらわになった契機じゃないかと、、、、、」
そう、ますます露わになってきたよね。コワイですよね。

僕は1942年生まれですから、太平洋戦争のことはあまり覚えてないんですけど、アメリカに対する思いっていうことでいうと、ちょっと話はとびますけれど、最近おもしろいことに気がついたんです。僕はチョコレート好きなんですよ。チョコレートを好きなんだけど、何故かチョコレートを食べなかったんですよね。ええと、日本に「ショコラ」っていう映画来ましたか?母親と娘が旅でいろんなところへ回って行って、流れ着いた町でチョコレートを作る。で、チョコレートがその町を変えるっていう、そういう話なんです。その映画を今年の春見たんですけど、その時、あ、そういえば、オレ、本当はチョコレート好きなんだよな、でも、なぜかチョコレート食べないんだよなあって、自分でも不思議に思ったんです。で、なぜ食べないのか一生懸命考えて、自分のトラウマってのか、自分で自分を呪縛してたのをふっと思い出して、ああそうかって思い出すと同時に自由にチョコレートを食べられるようになったワケ。

これはどういうことかと言ったら、終戦後、敗戦後ですね。僕、広島県の呉市で育ってまして、呉市は戦前は海軍の町で、今でも海上自衛隊の基地があります。軍港だったからいわゆる進駐軍、占領軍の兵隊がたくさんいたんです。占領軍の兵隊がたくさんいるところには、まずはっきり言って売春宿がたくさんありますよ。そういうとこで育ったの。今でも、こう具体的なイメージで、はっきり思い出せるんですよね。ビデオ見てるみたいに。アメリカ人がチョコレートくれるんです。ヘーイ、カモーンって。で、ちょうだいちょうだいってもらいに行くとね、おまえんトコにいいオネエサンいないかっていうの。つまり、オンナを探してるワケ。そういうのモチロンイヤだなあって思うわけです。そしてうちのお袋が、あの連中からチョコレートもらっちゃダメよって言って怒られたことがあるんです。それで、チョコレート欲しかったけれども、そのときに自分で我慢してもらわなかったんですよ。で、ああ、そうかって、それを映画で思い出したんです。チョコレートの味は好きなのに何故食べないのか、映画を見た後そのことについてずーっと考えてて、思い出したんですよ。あの時にチョコレートは二度と食べないって決心をした。5,6才のころですよ、自分で自分の心に言いきかせたんです。チョコレートなんか食べなくても生きていけるって。それがずっと残ってるんだよね。60才まで。それが解けたんです、映画を観て。

話が飛びましたけど、それくらい占領軍に対して、そういう屈折した思いが強いワケです。僕は戦争体験ていうものはないんだけど、そういうアメリカ軍っていうものはありました。小学校から中学校にかけての頃には、やっぱりミッドウェー海戦は、あの時はこうだったけど残念ながら日本には運がなかったとか、そういうのをずっと聞いてそういう戦記ものを読みながら育ってきましたから。ゼロ戦てのはスゴかった、戦艦大和、もちろん軍港で大和を作ったところだから、戦艦大和はスゴかったとか、武蔵はこうだったとか、そういうのがありましたか。そういうのがありました。また高校時代、大学時代には、日本史/世界史が好きだったせいもあって、太平洋戦争の秘話とか、第二次世界大戦前後の日米外交史とか、東京裁判の記録とか、もいろんなツテを使って手に入れて読んでいました。まあ、アメリカと自民党政府がうまくくっついたから戦後の復興があって、戦後の繁栄があったんですけど、でも、アメリカのやってることってのは正しいことばかりじゃないなと思ってたの。

それがまあ、伏線としてあって飛行機がね、ビルの中に突っ込んでいく時に、ものすごく共感するんです。あんまり言うと、アメリカ人が怒るし誤解されると困るんだけど、ある意味アルカイダに共感するんですよ。そういう人いない?日本人で。(「ある」の声)あるね?Yes!ってね。ビルが崩壊した時に、本当は自分たちがやりたかったことをやったんですよ。あの連中、やったのよ。

そりゃ、日本人だって中国で悪いことしたとかいろいろありますよ。日本の戦争責任は、それはまた話は別なんです。それは別としていろいろ見てると、日本が開戦せざるを得ないようにもってった、そのやり方は今、イラクに対してやってるのとまったく同じですよ。情報戦争でもってずーっとからめとっていって、弱い者イジメです。昔っからあの連中はこうなんですよ。それに対して一矢を報いるためにはね、もうそれこそ、ああするしかないんですよ。「法律的に不法でないものは正しいこと」っていう風にずっとやられるちゃうから。アラブの連中にとってはもう全部押さえられていて、石油とか、自分たちの金になるチャンスは全部押さえられてるからね。それはアラブのひとたちだって金持ってるひとはいますけど、うまく飼いならされたひとばっかりでしょう。サウジアラビアの王家とかさ。そうすると、今の情勢をひっくり返すためには、日本が真珠湾を攻撃したのと同じですよ。だからもう、アメリカのメディアは真珠湾と9月11日を結びつけて報道してます、偶然か必然か。パターンとしては全く同じね。それで、今、アメリカがやっぱり同じように言ってるのは、アフガニスタンにしても、アメリカに任せてくれれば、ちゃんとしてやるって言ってる。同じことを日本にもやったでしょ、マーシャルプランって。そう考えると、ウラは全部同じなんじゃないですか。そういう意味で、9月11日ってのはすごく象徴的ですね。

ちょっと話が長くなりましたけど、ここで日本がはっきりものを言わないでね、なんとなく世の中の流れと一緒になって流れていくと、結局、日本人ってのは、欧米中心のものに組してるということになります。日本人ってこの向こう10年間か20年間かは、これでまあなんとなくいくかもしれない。でも、日本人が期待されてるのは、河合隼雄さんの本にも書いてあるけど、いわゆる第3世界とか欧米の人たちじゃない人たちの意見をうまくまとめる、まとめ役ですよ。それを日本人ってのはできるんじゃないかって期待されてる。テクノロジーも持ってるし、教養もあるわけだから、そういうふうにもっていければいいんじゃないかなって思うんですね。そういう意味で、欧米主導のグローバリゼーションじゃなくてね、だからといって、日本主導っていうんじゃなくて、もっと、いわゆる第3世界を含めて、アジア、アフリカのことも考えながら、要するに第3の意見、これをうまく聞き出して、発表して、訴えかけていければいいんじゃないかって、すごく思いますね。

それで、僕がこの本を読んでて、渡辺君に薦められて河合さんの他の本も結構読んだんだけども、スゴク共感したのはアートってことをすごく言ってんですよ。アートだとものの考え方だとか言葉の違いをのり越えてシンボルとして全世界の人に共通にね、なんか訴えることができる。だから、アートってのがいいんじゃないかってことを言ってるんだけど、考えてみると、青木先生が、もう60年代の終わりに、そういうのを作ってらしたのね。河合さんが言う「中空均衡型」っていうのを考えてみると、あれは真ん中が空いてるんでしょう。青木先生の新体道でも、武道と宗教と芸術があって、こう中空が空いてるワケです。そこで、お互いに火花が散ってるところに新体道がある。これは、まとめて、凝縮して、しぼり出したものじゃないんですね。常にこっちが強くなったり、別の時には、こっちが強くなったりやってる時に、新体道がチラチラ、チラチラ、こう燃えてるワケですね。で、1つがなくなると他のも弱くなるっていうかね、そこにおもしろさがある。

そういう意味で、もっと言うと、養気系と開放系と正立系と自護系というのは、僕のイメージとしては、正三角形が四つ合わさって立っている小さなダイヤモンドみたいなものですね。そういう世界です。僕が言いたいのは、みなさん稽古人だから、稽古するときに、開放系の稽古とかプログラムそのものにとらわれてますけど、アートとして、立体としてね、青木先生はそういうものを提示しておられるんじゃないかってことなんです。目に見えないアートですね。開放系と養気系と自護系と正立系を使って作り上げた目に見えないアートです、新体道って。そう考えるとね、これはおもしろいです!そうすると、世界の人たちが共存共栄できるモデルとして新体道があるんじゃないですか。新体道が好きな人ばっかりが集まって新体道を賛美してもしようがないんですけども(爆笑)――でも、今みたいにこうやって話すのは、みなさんにだけじゃないから。新体道の素晴らしさを説明する時には、いつもこうやって説明するの。

それと、もうひとつおもしろいのは、文化としての新体道。日本の武道は普通、一対一で稽古するのが多いんですよ。ところが新体道は江上先生の影響もあるんだけど、新体道の原型は空手から来てますし、空手ってのは沖縄が発祥の地ということになっていますが、沖縄の空手ってのは明らかに、沖縄の人がいかに弁明しようと中国拳法の影響下で発展してきた格闘術ですよね。そしてみなさんご存知のように、中国拳法の練習方法には、一人稽古、組手、団体稽古ってあるんです。そして、日本で発展してきた武術には団体稽古というものが形として遺っていなかったんです。ところが団体稽古で号令をかけるってのは、部隊の兵士を纏めて訓練をするときのそれと共通するところがたくさんある。そういう団体稽古の号令を、江上先生が中野学校の教師時代に研究されていた戦場での指揮術も含めて青木先生が受け継がれて、新体道の号令術として新たに練り上げられたんです。新体道の団体稽古と号令術にはそういうバックグラウンドがあります。

剣道とか格闘技がいくら強くったって、あれは号令術は稽古できないでしょう。部隊や兵士を動かす稽古はできない。一対一の戦いのはそりゃ強くなるかも知れないけど、そういう意味で新体道は、やっぱり、あくまで総合武道です。兵法っていうか、兵を運用する法、それを現代的にアレンジしたのが号令術であり、団体稽古なんですよ。そう考えるとね、新体道ってのはやっぱり、日本から来た武道ではあるけれども、日本の武道の水準を超えてます。強いとか弱いとかじゃないですよ。モデルとして超えてるんです。

合気道にしても、柔道にしても、まあ合気道は一対三とかたまにそういうことがありますけど、それでも、合気道の団体稽古ってないでしょう。空手にはありますけど、空手の団体稽古はカチカチの人が軍隊式の号令をかけるから。イチッ、ニッ、サン、シッ、ゴーッ、ロク、ハイ、ヤメーッ!オスッ!(笑)新体道はこれとは違いますよね。もちろんみなさん経験済みですけど。これに対して、青木先生の号令術は、要するにシンフォニーです。ベートーベンの合唱とかその他の音楽芸術なんかを参考にして青木先生が作り上げたものですね。つまり、ルーツは兵隊を訓練する時の指揮術なんだけれども、開放系の稽古とか、養気系といったプログラムを使いながら、人のたましいを浄化させるような、そういうものに昇華されたんです。

開放系とか養気系とか正立系とか自護系とか、そういうものを音楽にたとえて、これをいろんな楽器だと思えうと非常に分かりやすいと思いますね。じゃ君はこれをやってくださいって。バイオリン弾くひと、ピアノ弾くひと、ドラム叩くひとって、いっしょにやりながら、からだの固いひとも柔らかいひとも、男も女も、老若男女みんな一緒にしてくれる。そういう風に考えるとすごいですね。団体稽古そのものがアートだし、いのち燃えよで、それこそ一期一会なんですね。そういう意味において、ホント総合芸術なんです。そして、そういうものを作って、それを提示してるんですよ。しかも、アメリカのひとにも喜ばれるし、ヨーロッパのひとにも喜ばれるわけでしょう。そういうものは体の動きだから、言葉はうまくしゃべれなくても、天真五相でも栄光でも、型を覚えてもらって、みんな一緒にプレイできるでしょう。アートってそういうもんですよね。そのことそのもので世界平和はできないけれども、世界の人達が共存共栄できるモデルを作ってるんですよ。

例えば、「無」っていうのは見えないけど、無の空間というモデルを実際に目に見えるカタチにした人がいるんだよね。切り紙細工で。「無の球」っていうタイトルなんですけど無いものが見えるんです。日本人が考えたモダンアートで、たしか今でも現代美術館に展示してありますよ。これはスゴイ!これはスゴイ!ってね、むかし、青木先生が楽天会のときに大喜びされてました。提示して見せる、ということを考えると、青木先生が作られたものはいろいろあるけど、やっぱりスゴイです。

そこで、最後に大妙の話に戻るんですけど、ぼくは、9・11以後、アルカイダに共鳴する、Yes!っていう、そういうものがあると同時に、さっき言った、アメリカの醜さとか傲慢さがますます現れてきて、現れてくればくるほど、こう、自分が無力に感じて、それでスゴく落ち込んだんですね。でも結局、昨日の夜も話しましたけども、原子力発電から出てくる廃棄物を拡散したり、かってにどこかに捨てるのに反対してるドイツのひとたちと新体道を一緒にやりながら、「心の平和」ってことを考えて、その時に気付いたのと同じことなんですけど、つまり、「平和の波動」をもっともっと増幅させて、もっともっと強い波動で、こころの平和を発信するっていうかな、・・・それしかないなあと思うんですね。

そう考えた時に、きのうも随分話しましたけども、波動で氷の結晶の形が変わる話じゃないけども、人間の体ってのは80%水でできてますから、浄心位に代表される「浄」ですよね、浄める。自分たちの体とこころを徹底的に浄めて、波動をすこしずつ高めていくってことがありますね。で、結論から言うと、大妙っていう瞑想の型は、もう、すごいです。やればやるほどすごい。例えば、一時間から二時間かけて瞑想したいときに、ただ座れって言われてもこれは大変ですよ。いろんな妄想がでてくるしね。ところが、大妙の型でやるとね、要するに長編映画ですよ。例えば、『七人の侍』とかそれ式の長編映画、そういうの何回観てもいいじゃないですか。スターウォーズとかさ、何回観てもおもしろいよね。それと同じですよ。やればやるほど、味が出てくる。

今、僕が世界の人々に、世界っていっても新体道の人口は少ないんですけども、呼びかけてやってるのは、今、このウィークエンドに僕がここで大妙の稽古をやってるのを知ってる人は、それぞれの場所で同じ時間に一緒に大妙やってくださいねって呼びかけてるんです。だから、きょうもみんな一緒にやってますよ。世界同時上映じゃないけど(笑)。やってるんですよ、実は。そういう風に声をかけてまわってるんです。今度僕がどっかで大妙のワークショップやるとき、やっぱり同じテーマでやりますから、みなさんにお知らせしますから、ぜひ同時上映にしてください。そういう感じで、大妙が広がっていけばいいんじゃないかなあって思っています。

もうひとつ、話したかもしれないけども、証光って、自分が悟りを開くためとか、集中力を養うためとかね、そういう目的を持って証光をやるのは、それはそれで大変なことだし、立派なことだと思うんですけども、でもね、それでやると物凄くつらいですよ。・・・ところが、証光っていうカタチをですね、きょうもやりましたけれども、栄光(正)でこう入っていくこのカタチは、いろいろ使えると思うんですけれども、「遠隔治療」の型として捉えてみてもいいんじゃないでしょうか。遠隔治療っていうと、何かその、癌を治すとかそういう感じで言われてますけど、そういうのじゃなくて、例えば、ロンドンとパリとかその間に橋をかけて、お互いに向かい合って、・・・まあ、向かい合うったって、結局はどっち向いても同じなんですけど・・・証光やるんですよ。サンフランシスコとボストンとか。お互いに祈りを込めてやると、これねえ、おもしろいんですけど、相手に対してやるとね、例えば組手のときにお互いに証光ってやると、10分でも20分でもできるんですけども、一人でやると、5分でもすごく長いんですよね、証光って。ましてや、1時間ってものすごく長いですよ。なんでオレこんなことやらないかんのや、自分を鍛えるなら他のやり方もできる、とかね。証光やってるとき、いろいろ考えますね。ところが、ディスタント・ヒーリングで、ひとに対する祈りとして証光やるとね、これは、続きます。

ということは、今までの稽古の方法って悪いことじゃないんですけど、自分を鍛えるとか、自分中心でしょう。つまり、ナルシズムですよ。徹底的なナルシズムです。自己愛ですね。そうじゃなくて、大宇宙のエネルギーを自分に集めるためにだけやるんじゃなくて、集まったエネルギー、波動を、ワ~ン、ワ~ン、ワ~ンと、遠くに行けば、ま、ちょっと弱まるかもしれないけど、ずっと送り続けてると、津波と同じで、チリで起こった地震の波が、ワ~ン、ワ~ン、ワ~ンって、太平洋越えていくんですよ。そういうのと同じもんだと思います。平和の波動っていうか、安心っていう波動をね、こうやって伝えていくんです。

そしてそれは、人間同士だけじゃない。今、動物も植物も、すごい不安がってると思います。世界中が、このままいくとアメリカは何をやるのか?って、そういう人たち、もちろんブッシュさんに対しても波動を送らないといけない。ブッシュさんがいなくなればいいんだ、死んでしまえっていうのは、これはブラックマジックですから、そういうのはダメですけどね。ブッシュさんに対してもいい波動がいかなきゃいけないんだけど、そんなに遠くじゃなくていいんです。自分自身のまわりの山川草木に対して、ダイジョウブですよ、私がいるからダイジョウブですよって、そういう風になればいいんじゃないですかね。

それともうひとつ、これは我々一人ひとりのものの考え方っていうか、哲学的な命題になってくるんですけど、永久の世界平和を実現できなくてもいいんじゃないですか。1年でも、1ヵ月でも、わずか1秒でも、ホントに平和なコミュニティが自分のまわりにできれば、それでいいじゃないですか。

マザー・デレサと同じですよ。マザー・テレサがやったことっていうのは、あの人って、救うんじゃないんだよね。せめて人間らしい死に方をさせてやりたい。ただそれだけです。覚えてる?あのひとのテーマ。要するに、息を引き取るときには、人間として死なせてやりたいという、そういうことなんです。いちばん疲れて、いちばんヨレヨレのひとをひろってきて、それを介抱して元気にして送り出すんじゃないんです。そこで看取るんです。

それでいいと思うんですね。半永久的な平和を全世界で確立すると、人間、修行できなくなりますよ。退屈じゃないですかね(笑)。ものすごく退屈。だから、敵もさるものじゃないけども、むこうが、怪物が、妖怪度を増せば増すほど、こっちも、グーッと瞑想するんですよ。で、そのために我々は大妙の型を持ってるんです。そう思うと幸せじゃない?大妙の型を持ってるってのは。Yes!それこそ、Yes!って(笑)・・・いくらでも、「敵は幾万ありとても」という心意気ですね。僕個人は、そういう感じで大妙の型をやってますね。
そんなとこで、時間も遅いようですので、きょうはこれで。では、みなさん、おやすみなさい。