Tsumura (in Japanese) 2007

南京大虐殺の70年目に
南京で語ったこと
津村喬

みなさんこんにちは。私は日本の京都から来ました。本来の名前は高野というのですが、仕事の上の名前は津村喬といって、たくさんの著作はこの名前で書いています。南京での日本軍の暴行をくぐり抜けた方たちのお話を聞いて、それに対する日本側の応答をせよという大変難しい課題を棚橋さんから頂戴して参ったのですが、お話をお聞きするうちに、どうもこれは大変なことになった、何を申し上げても白々してしまうのではないかと臆してしまいました。しかし私には、ふだんから考えていることをお話しするしかありません。

私は中国ととても縁が深く、回数にすればだいぶん前に100回を越して、それからは正確に数えていません。初めて中国に来たのは43年前の1964年、16歳のときでした。そのとき私は南京に来ています。決して避けているわけではないのですが、ずっとこちらに来る縁がなくて、実に久しぶりに南京に来ることができました。当時日本と中国はまだ国交がありませんでしたから、中国に来る人はとても少なく、中国と特別のつながりのある人だけでした。その特別のつながりを説明するには私の父親のことを語らないわけにいきません。
私はいつも筆名である津村で通しているのですが、今日は本名は高野でと切り出したという理由は、父のことを話したかったからです。私の父は高野実といって、日本の労働組合の全国的連合体の事務局長をしていました。高野が指導していたころの総評は1960年代以降と全く違って「闘う総評」であり、労働者の生活を守るための経済団体であると同時に、はっきりとソ連や中国を支持し、アメリカの世界支配に抵抗する政治的姿勢を持った政治団体でした。アメリカに占領されていた時代ですから、アメリカ占領軍の指導のもとに作られた労働組合連合体が突然朝鮮戦争での中国支持を打ち出した時には誰もがびっくりしました。「ニワトリだと思って育てたらアヒルだった」と当時の新聞は書いたものです。その転換は高野の強力なリーダーシップのもとに進められたので、当時の総評は「高野総評」と言われました。

1954年10月に、当時の中国赤十字総裁の李徳全女史が団長として、国交はありませんから私人として日本を訪問しました。彼女は中国に残された日本人の遺骨を届けるという人道目的のために来日して、日中がこれからどんなつながりを持てるか打診しに来日しました。招聘したのは日本赤十字、日中友好協会など三団体、そのときに羽田で李徳全女史を迎えたのが高野でした。李徳全女史はそれからすぐ中国政府の衛生部長になりました。

64年の夏に父親が病気治療で招いていただくまでにはそうした経過があったのですが、この時に兄と二人付いていきまして、父親が大連で療養する間、通訳をつけていただいて瀋陽、撫順から広東まで長い旅をさせてもらって、中国がどういう所かを見せてもらうというありがたい機会があったのです。何事も最初が肝腎といいますが、最初の訪中は確かに私の人生でももっとも重要な体験になりました。一つは父の療養にからんで、気功と太極拳を習う機会があったことです。これは今なお私の主要な仕事になっているので、人生の方向を決定したと言っていい出会いでした。このことは今は詳しく申し上げません。もうひとつ、決定的なできごとが、南京に来たことでした。熱い真夏の南京で長江の流れを見ながら西瓜を果てしなく食べた記憶とか、外界と70度の温度差がある豚肉の屠殺工場の倉庫に入ったこととか、モノクロ写真のような遠い記憶が残っている中に、南京虐殺の博物館を訪ねたことが、鮮明な、そこだけ色つき画面に変わったような記憶として残されています。
それまでは私は日本と中国が戦争をした過去があることは漠然と知っていましたが、すでに過去のことと思っていましたし、どんないきさつがあったかも知らず、自分に関係のないことと思っていました。そこにはたくさんの写真と実物とでこの短期間の集中的な虐殺の記録が展示してありました。とくにショックを受けたのが、生首を下げた日本の兵士の大きな写真でした。生首を下げているということにではなく、その顔がいかにもくったくのない、普通の日本の農民の、てれたような笑顔だったと記憶しているのですが、そのことに驚いて、恐怖を感じました。つまり、悪鬼のような恐ろしい存在がではなく、日本の田舎で会えば田舎の人は素朴で温かいと感じさせるような雰囲気のおっさんが、ひねった鶏をぶら下げるようにしていたことがです。
もうひとつ、木の切り株に二つ穴を開けたような道具が目にとまりました。そこに中国人捕虜の顔を乗せて後頭部から強く叩くと目玉だけがどろりと落ちるという装置だと解説していました。空想博物館でみるような残酷が戦場では当然になるのだということを初めて思い知らされたのです。

私の記憶は正確なものではありません。雨花台の血の色の石まで日本軍のせいかと誤解して記憶していましたが、これは行きすぎだと最近調べなおしてわかりました。とにかく虐殺の印象があまりに強かったのでしょう。私がその時思ったのは、ごく普通の穏やかな日本人でも、戦争という状況におかれれば殺人鬼になりうるのだということでした。とすると、私自身もまた、そういう状況におかれたら、平気で中国人の首を切り取り、ぶら下げて記念写真を撮るかもしれないと思いました。ふだんはとてもそんなことは出来ないと思っている人が、どうやって殺人鬼になるのでしょうか。それがわからなければ自分はそうならないと言い切れません。私の父親はどうやって殺人鬼になることを免れていたのでしょうか。
実際には私の父親は、この時第一次人民戦線事件で捕らえられて、獄中にありました。このことを知って、ほっとしたことを覚えています。彼は戦争に反対して1937年から40年まで捕らえられたので、中国の戦場に来ることはありませんでした。

1967年に再び父親とともに中国をおとずれたさいに、北京で7月7日を迎えました。それは日本の中国への公然たる侵略戦争の開始の日である芦溝橋事件の30周年に当たっていました。当時は数えるほどしかいなかった在北京の日本人によびかけて、父は「七七30周年」の小さな集まりを開催しました。
その時に父は、今まで一度も口にしたことのなかった、とんでもないことを言いだしました。
「私は当時全評という労働組合の連合体の責任者をしていました。七七の当日すぐに私は憲兵隊本部に呼ばれました。そして文字通り銃剣を突きつけられて、日中戦争への協力を誓わされました。私はもちろん素直に協力を誓ったわけではありません。しかしなんとか言い抜けて、ごまかして、帰ることができました。しかしあとになって戦争の実態を知るほどに、自分はあのときに卑怯な振る舞いをしたのではないか、戦争に反対すると明確に告げて殺された方が殺される中国人を何人かでも少なくすることができたのではないかと、ずっと悔やみ続けました」
彼がその時死んだら、私は生まれなかったではないか、とそれを聞いてまず思いました。とすると、彼の抵抗の不徹底によって私は存在しているのか、と複雑な気持ちでした。七七から五ヶ月後の南京攻略の時には彼は獄中にいたので、戦争に協力もしないかわりに、積極的に戦争反対のために闘うこともできませんでした。彼は当時の日本人の中では、歴史的展望を持ち良心を持っていたほうだと思います。彼の師匠であり、一緒に人民戦線事件で検挙された猪俣津南雄は『隣邦支那の前途』の中で明確に日本の侵略の破綻と中国共産党の勝利を展望してもいました。しかし、猪俣と高野がかつてその創立に参加した日本共産党ものちの日本社会党の前身である労農派も含めて、日本が戦争の道を歩むことを阻止できる勢力はいませんでした。だからこそ、二度と再び中国やアジアへの侵略をしたくない、ノーといえる力を持ちたいというのが父たちの願いでした。戦後に400万人の総評組織を朝鮮戦争反対・中国支持へと持っていったのは、彼にとってはそのせめてもの償いだったのかも知れません。

南京の博物館に残された拷問器具はもちろん中国側のでっちあげではないし、南京だけの例外的なものではありませんでした。中国全土で、日本軍の公式の「仕事」として拷問が行われていたことは当時の歴史資料を見れば疑うことができません。まだ検証するのに遅すぎることはないと、戦時中の日本軍の暴行を詳細に検証した野田正彰さんの労作『戦争と罪責』のなかには「生木でうちのめす、後手にして吊す、石の重しをつけて肩関節を痛める、焼きごてで焼き尽くす、水責め、削った三角柱で向こうずねを痛めるそろばん責め、布団針で爪の下を刺し通す」「竹刀で殴り続けて皮が破れ肉が抜き出しになるとローソクの火で焼いていく」などの残虐行為がどのページを見ても出てくるのですが、それが暴走した現場のやりすぎではなく、関東軍参謀本部の「俘虜訊問要領」によって裏打ちされたものであることに驚いてしまいます。そこには「実施容易にして残忍感なく苦痛の持続性大にして障害の痕跡を残さざるに着意し」とことわりつつ鉛筆を指の根本に入れて責める、寝かせて鼻と口に水を注ぐ、などの具体的な方法を指示しています。
もちろん戦争では、突撃して銃を撃ったり意味もなく放火したりすることに暴力性が表れるわけですが、この拷問の具体的方法の中に「敵」と見なした身体に対する兵士の残虐性を極限の姿で引き出すものがありました。それは現場の緊張状態の為に暴走てしまった異常事態ではなく、参謀本部によって構想され、指示されたものでした。その組織的暴力が女性に対しては強姦という形で現れました。その肉体を性的欲望の対象としたと理解するにはあまりに残虐な、性器から銃剣を入れて切り裂いたり手榴弾を詰めると言ったやりかたは、女性的なものへの憎悪のむきだしの現れというしかありません。集団的狂気、というのは表面上の比喩ではありません。

野田さんは精神医学者として、戦争で残虐な体験をしてきた日本人がどのような心の傷を残しているかをフィールドワークして、この『戦争と罪責』はまとめられました。そこから私が読み取ったのは二つのことでした。 一つは、そうした戦争のスタイルを構想した参謀本部などの戦争指導者だけでなく、それにやすやすと乗せられて蛮行をおこなった日本の男たちの日常性の中に、ふだんは見えにくいがそうした暴力を生み出す「根」があったのではないかということです。
またもうひとつは、戦争体験の中でほんの短期間、集中的に表に現れた暴力性は、消えてしまったのではなく、戦後も形を変えて継続し、今も続いているのではないかと言うことです。日本の国家が戦争について「ご迷惑をかけた」という程度の反省しかしていないことが、過去の戦争に現れた日本人の心の底の残虐性を振り返って癒していく機会を奪って、そのままひそかに若い世代に受け継がれてきたのではないでしょうか。

第二次世界大戦から、戦争は質的に変化を遂げていました。ひとつには戦闘員と非戦闘員の区別がなされなくなったことです。戦闘員だけを殺すべきだというそれまでの戦争の常識はもはや建前になってしまい、非戦闘員も含めて敵方を抹殺することが当然になってしまいました。それは「総力戦」という新しい概念を産んでいました。敵国の戦闘員を抹殺するだけでなく、国民全てを敵と見なして必要なら殺戮していくということは、情報メディアの発達と兵器の過剰発達から生じたものであり、クラウセヴィッツの時代にはなかった戦争でした。ヒトラーのユダヤ人やジプシーに対する皆殺しもこの総力戦という概念なしに語ることはできません。侵略を受けた側もまたそれに対応する戦争を組み立てるしかありませんでした。毛沢東の人民戦争という概念はやはり戦闘員と非戦闘員がもはや区別できなくなった時代の「人民の海」の中での遊撃戦の概念です。
新時代の戦争には戦闘員と非戦闘員、戦争地域と非戦闘地域の区別を無意味にするという空間的拡張と同時に、戦時と平時の区別を曖昧にし本質的には無意味にするという時間的拡張が見られました。それが石原完爾によって「永久戦争」とよばれ、トロツキーによって「永久革命」とよばれ、毛沢東によって「持久戦」とよばれたこの戦争の性質です。
私たちはなぜもう一度「南京」をとりあげて論議しなければならないのか。それはこの南京で起きたことについて道徳的に決済がついていないためですが、そこに止まるものではありません。南京のスタイルはその後世界で繰り替えれさて来た歯止めのない「総力戦時代の民族虐殺」の最初の経験であり、そのすべての「原型」であるということです。

ドイツのフォン・ブラウンのロケット技術は一部はアメリカ政府に、一部はソ連に継承されて行きましたし、日本の七三一部隊の細菌兵器、毒ガス兵器などの研究は罰せられることなくアメリカ政府に吸収されていきました。それは敵味方を超えて総力戦時代の技術開発が継承発展させられたということです。核兵器の出現によって、「総力戦」はひとつの完成を見ました。地球を何十回も消滅させうる核兵器の蓄積のもとでは、既に戦闘員と非戦闘員の区別は意味を持ちませんし、宣戦布告によって戦争が始まるわけではありません。核の強迫を背景に、各地域でテロとジェノサイドとが繰り返されていく時代に、一人の人間がいかにして平和を語ることが可能なのでしょうか。それは、この終わり無き狂気の最初の現れとしての南京から語りなおされなければなりません。南京は総力戦という「国家によるテロル」の出発点なのです。

私たち戦後生まれにとっては、個人としての戦争責任はありません。しかしだから今はどの国の人とも仲良くなれるし、仲良くしていけばいいと考えていいのでしょうか。父の世代、祖父の世代とさかのぼるほど国境を越えてアジアの人々と友だちになることは困難でした。今は旅も容易だしネットでつながってもいます。そして具体的な生活感感覚のレベルで外国に友だちを持つ人が増えることは、平和のためのひとつのベースと言えるでしょう。でもそれだけでは足りません。個人の努力が、この時空間を包む暴力と狂気の中で意味を持って行くには、民族としての歴史的な罪の意識が必要です。罪の意識とは、今の世界を覆う狂気の始まりになったできごとに責任を負って、一緒にそれをなくしていきたいという意識のことです。
今日私たちはここに否応なく日本民族を代表してやってきています。そしてこの意味の罪の意識を明確にすることで、自分自身と日本人全体の意識の変容を引き起こしていく一歩にしたいと思っています。「総力戦」は私たちに手の届かないところで動いているが、それを終わらせる作業はやはり個々人の努力の中にしか始まっていきません。

日本では戦争体験は、中国やアジアの人たちに何をしてきたか、としてはほとんど語られてきませんでした。アメリカの空襲で、占領でどんな目にあったか、疎開や引き上げでいかに大変だったか。戦争といえば自分たちの苦労話になってしまう。国を挙げて隠してきたことがあります。その仕組みは戦後にも、朝鮮戦争やベトナム戦争によって高度成長をとげて裕福になっていくという形で引き継がれて行きました。
私の師匠である竹内好は1950年代に「大東亜戦争の二重性」について語って論壇に衝撃を与えました。それは中国はじめアジアの諸民族に対しては一方的な侵略だったので日本に罪がある、しかしアメリカとはアジアの権益をめぐって起こした帝国主義どうしの対立であるから、日本国民は責任を負わない、これを区別しないでアメリカにすみませんということになると、アジアへの責任が明確でなくなってしまう、という主張です。じっさいに戦後的意識はそのように流れていきました。「反米愛国」となるともう過去のアジアへの侵略は問題にできません。

一人の人間でも、暴力にさらされた体験は自分で自覚しなくてもずっと心の中に残っていきます。それが思わぬときに家庭内暴力として出てきたり、人と対立したときに不本意にエスカレートしてしまう体験に出てきたりします。それがまた知らず知らずのうちに、一緒に暮らす相手からも暴力的なものを引き出したり、知らないうちに子どもの世代に継承されたりしていきます。今の子どもたちの中からいじめ殺人や残虐なばらばら事件が出てきたりするのは、その祖父の世代に侵略という形で噴出した暴力の体験が一度も癒されてこなかった結果です。罪の意識を持つということは、謝罪して隣人と対等のコミュニケーションを持てるようにするというだけでなく、本人が癒されるということです。日本の男たちは癒されていないし、隠された暴力をひきずっています。この意味では南京大虐殺を生み出したものは日本の近代家族に継承されてきた暴力性にあったし、それは今もなくならずに、見えない総力戦体制に引き継がれています。
いまこの地点から、やりなおさなければいけない、と思います。日本人がこのような意味での罪の自覚と癒しをくぐり抜けないかぎり、親や祖父母が受けた苦しみから今中国の人々が癒されることもないでしょう。だからこそ南京大虐殺と向き合い、それを継承しなければなないのだと、今日改めて思いました。

私ははじめにお話しした通り、1964年に南京に来たのですが、その時同時に、大連や杭州で気功と太極拳を学びました。陳嬰寧という当時の中国道教協会の会長から直接に静功を習いました。そしていつしか文筆家としての仕事よりも気功を教えることが主な活動になってしまいました。
私の父親は中国への罪責感も手伝って熱烈な毛沢東主義者になり、幸か不幸か、毛主席が死んで中国が大きく変化していくのを見ずに74年に亡くなりました。私は今もひそかに毛沢東の研究を続けていて新しく出される資料を追い続けていますが、もちろんすでにマオイストではありません。時代とともに変化するものにアイデンティファイして毛沢東を礼賛したり否定したりほかの指導者に期待したり失望したりしていては本当の平和と友好は難しいのではあるまいか。私が中国人と友だちになる方法として選んだのは気功でした。気功は5500年前の遺跡の時代から連綿と続いてきて、これから5000年後も人類が続くかぎり続く文化であると思います。2000年前に作られた五禽戯という気功法をする時に、私が正確に継承しなければ2000年後の人々に申し訳ないという気持ちになります。この悠久に引き継がれていく感覚は中国に特有のものです。総力戦と永久戦争を相対化できる手がかりの一つがここにあります。この悠久のものを共有していくことと、南京の意味を見失わないことが1964年以来、私の中国であり続けているし、これからもそうだろうと思っています。貴重なお時間をいただいてありがとうございました。